「ゆく河の流れは絶えずして、しかも もとの水にあらず・・・」が世の常

日本の暑いさなか、リオデジャネイロ オリンピックにおける日本選手の大活躍で日本中が歓声に包まれました。日本国民の一人としてこんなに嬉しいことはありません。
そして、私にとっては、オリンピックだけではなく、個人的に嬉しいことが続きましたので、自慢話みたいなことになってしまいますが、今回はその話の一端を披露させていただきたいと思います。

オリンピックでお祭り騒ぎの一方、8月12日は日本航空御巣鷹山墜落事故から31年目を迎え、今年も273人ものご遺族の方々が慰霊登山に参加なされたと報じられましたが、今年は国民の関心がオリンピックに向けられ、風化させてはならないこの事故の記憶を鮮明に留めているのは、ご遺族と関係者の皆さん、そしてこの事故のテレビの実況中継を実際に見た50歳以上の人だけかもしれません。

事故の年に生まれた人でも31歳。鴨長明の「方丈記」の冒頭に「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたはかつ消え、かつ結びて、久しく留まりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」 とあるように、時の経過とともに知らぬ間に周囲は変化し、過去は風化し、世の中の人々から忘れ去られていっても致し方ないのかも知れません。

私も今年はホテル業界を離れて丁度10年、また人生一つの節目である傘寿(80歳)を迎えました。
ホテルオークラ(東京)開業1年前に入社し、45年間勤務、ホテルオークラ福岡を最後に2006年に70歳でリタイアいたしました。
10年ひと昔、業界を離れて10年も経てば余程の有名人でない限り忘れ去られてしまうのが世の中の常です。方丈記のように私の存在が風化していっても当たり前のことです。

しかし、先般オータパブリケーションズ(ホテル業界誌の出版社)様から8月末に東京で開催される「週刊ホテルレストラン」創刊50周年記念パーティの招待状が送られてきたのです。
おそらく、現役のホテリエでも、一流ホテルの社長、総支配人とか営業企画部長または料飲部長とか限られた人々しかご招待されていないと思われますが、私ごときがご招待を受けてびっくりしております。

なぜ、私がご招待を受けるのか、いろいろ考えましたが、これといった事由が見当たりません。
強いて想像するならば、現役時代の最後にホテルイースト21東京とホテルオークラ福岡の二つのホテルを再生させた実績を評価していただいたのかも知れませんが、いずれにしても10年以上の歳月が流れています。
にもかかわらず、私の存在を忘れずにご招待していただいたオータパブリケーションズの太田社長に心より感謝申し上げます。

二つ目は、私がお出した暑中お見舞いの葉書に対し、週刊新潮のノンフィクション編集部の編集長から、今年はなぜか長文のご丁寧なメールを頂戴しました。

私がホテルオークラ神戸に勤務していたとき、1995年1月17日早朝5時46分、阪神淡路大震災が発生しました。
そのとき、彼が週刊新潮の担当記者として東京から取材にお見えになり、私が避難所から徒歩で瓦礫の中の道程を2時間近くかけてホテルへ出勤する情景を「企業戦士」と題して、グラビア一面で取り上げてくれました。

彼のメールの一部を紹介しますと、「その節は、本当にお世話になりました。1995年の阪神大震災の際ですから、すでに20年以上の時が流れたと思うと、不思議な感じがいたします」(原文のまま)。

彼とは、お互い一度会おう会おうと言いながら、以来、未だに実現していませんが、「光陰矢の如し」で月日はあっという間に過ぎ去りますが、JALの御巣鷹山墜落事故のように大きな事故や事件、災害などを実際に体験した人にとっては、そう簡単に忘れ去られるものではなく、風化せず一生記憶に残るもののようです。

三つ目の嬉しいことは、先ほど少し触れましたホテルオークラ福岡が債務超過に陥り、その立て直しのため2年間社長を務めました。当時在職していた47歳の男性社員からも残暑見舞いを頂戴しました。

「小職もオークラを退職し早いもので10年がすぎ、ロビーに入っても知った顔のほうが少なく、すこしさみしさを感じます。先日、○○夫婦(やはりオークラ福岡にご夫婦で在職していた39歳)の家族と高千穂に旅した時に、金子社長在職の時が、みんな一番良かったと話し合いました」と書かれていました。

退職して10年経った今でも、まだ私のことを忘れずにいて話題にしてくれる社員がいる。
自分は本当に幸せ者であると思っております。

2016年8月26日
株式会社JAPAN・SIQ協会 代表取締役 金子 順一