海難1890~国を超えた絆

新年明けましておめでとうございます。SIQコラム欄をご愛読いただき有難うございます。
本年も引き続きご愛読賜りますれば幸甚に存じます。

2016年の最初のコラムは、すでにご存じの方もいらっしゃることとは思いますが、見返りを求めない真心が生んだ国と国との「絆」のお話です。

昨年12月4日付の読売新聞夕刊に、映画「海難1890」で主演した俳優内野聖陽さんのお話が載っていました。1890年、和歌山県串本沖で起きたトルコ軍艦エルトゥールル号の海難事故を題材にした日本とトルコとの合作映画です。

1890年(明治23年)9月16日の夜半、オスマン帝国の訪日親善使節団一行と乗組員約600名を乗せて帰国の途についた“エルトゥールル号(全長76mの木造船、1864年建造)”が、折から日本に接近してきた大型台風に遭遇し、串本町紀伊大島の樫野埼灯台東方で座礁、難破してしまいました。そして使節団員、乗組員全員が荒れ狂う暗い海に放り出され、樫野崎灯台の崖の下の岩礁に打ち上げられてしまいました。

この惨状を見た大島村の村びとたちは、総出で救助や生存者の介抱に奔走しました。或る者はまだ大波が打ち寄せる危険な海に入り、遭難者を崖下の砂利浜に引きづり上げました。そして、別の者はそれらの遭難者を縄を使って崖の上まで引き揚げたり、身体の大きいトルコ人を背負って細い急な坂道を崖の上まで登って行きました。このような村人たちの献身的な行動のお陰で最終的に69名が生還することができました。

主演の内野聖陽さんは、『事前に船が座礁した場所が見渡せる場所に立ち、小さな日本人が、自分よりも大きなトルコ人を背負ってこの崖を上がったのかと想像をふくらませ「ここであったことをしっかりと伝えなければと」身が引き締まりました。

「どこのものでも、かまん。助けなあかんのや」。こう言いながらトルコ人を救助する村人たち、そして夜を徹しての傷の縫合や心臓マッサージする村の医師たちの姿に“見返りを求めない優しさ”を教わった。遺族がこれ以上悲しむことのないようにと、血まみれの遺品を丹念に磨く地元の人々の様子にも胸を打たれた』と語っています。

このエルトゥールル号の海難事故を題材とした本も2~3冊出版されていますが、なかでも秋月達郎著の歴史小説 「海の翼」が、村人たちの献身的な行動を詳しく描いています。
当時の大島村の人口は130人程度、ほとんどが漁師で日常の食料も乏しい貧しい漁村でした。

生存したトルコ人の食料にと、灯台の技士である滝沢が村じゅうを駆け巡り、かき集めてきた鶏を見て、樫野区長の半右衛門が「鶏は島の連中の命の綱やぞ!最後の最後まで大事に取っておいて野菜もなんも無うなったときに締めるもんや。」と叫ぶと、25歳の若い漁師の伝造が「日本人は、お客が来たら、なにがなんであろうとも もてなすもんじゃ。自分の食うもんの心配なんかせんもんじゃ。自分が飢え死にしたかて、お客を生かしてやるんが日本人っちゅうもんやぞ。世界のどこに出たかて、うしろゆびを指されんもんが日本人やぞ。わしゃ日本人じゃ。紀伊大島はにっぽんの島じゃぞ。串本はにっぽんの村じゃぞ。」

このような大島村の人々の行動は、日本の「おもてなし」の原点である古代日本のマレビト(稀人)の概念に遡ることができるのではないでしょうか。それとともに、日本人としての強い矜持を明治の人々は皆が持っていたことを教えてくれているのではないでしょうか。

そして、この国を超えた「絆」が、95年後の1985年、イラン・イラク戦争の真っただなか、テヘランに取り残された在留日本人二百数十名を救出するために、砲弾が飛び交い危険が迫るなか、トルコ政府はトルコ航空特別機を派遣し日本人を救ってくれたのです。

当時の日本では安保法案が整備されておらず、戦時下の海外へ自衛隊を出動させることは法的に困難で、日本政府は、救出のための自衛隊輸送機を飛ばしたくても飛ばせない
状況にありました。

そのとき、まだテヘランには自国のトルコ国民が300名近くが残っていたにもかかわらず、トルコ政府は在留日本人の救出を優先してくれたのです。そして救援機に乗れずに残されたトルコ国民は陸路イランから脱出しているのです。

現在、日本人の何パーセントの人がこのような歴史的背景のある事実を知っているのでしょうか?
新しい年を迎えるにあたり、「利他の心」と「歴史を学ぶ」大切さを改めて心に留めていただければ幸いです。

2016年 元旦 株式会社JAPAN・SIQ協会 代表取締役 金子 順一